「昭和の日」              寺岡 誠
本来、4月29日は昭和天皇陛下の御生誕日で有ったが、昭和64年1月7日に陛下が崩御された為、時代は平成の御代と移り、それ迄の天長節(御生誕日)は「みどりの日」へと祝日法で改正され、名称は昭和天皇が生前、自然と植物をこよなく愛されていた事に由来する。
昭和天皇は激動国難昭和時代に在っては、戦後連合軍へ御身を投げ出されて国家国民を救い、その後も日々只管「平和と安泰」の為、祈られる等で御心を痛められ、歴代天皇の中では最も御苦労を成された。
 崩御後も昭和天皇陛下に対する国民の追慕の声は絶えず、同時に陛下の御遺徳を顕彰し、感謝の誠を表したいと言う多くの声を背景に、平成元年当時から4月29日を「昭和記念日等、「昭和に因んだ新祝日として存続させる事が出来ないか。」との意見が、全日本愛國者団体会議(本部・東京)や民族派間から湧起り、国会議員を通じて国会へ嘆願書並び改正案を提出したが社会情勢等から見送られ、同年以降の4月29日は「みどりの日」という名称に改められた。                                                                その後も「昭和の日」実現を目指す為、全国の民族派団体(殉国青年塾も参加)が都内へ結集し、地元にて各々作成持参した昭和の日の早期制定を!等のプラカードを手に手に国会議事堂まで徒歩で行進し昭和の日制定嘆願書を国会議事堂前にて全愛会議々長団代表が読み上げて担当大臣へ手渡した。                                          それ等の活動により呼応・共鳴した推進派の国会議員有志が「昭和の日制定案」を提議した事で、平成十二年の第147回国会(参議院先議)、平成十四年の第154回国会(衆議院先議)に於いても議員提出法律案として審議に付され、共に先議院(参議院)では可決したが、国会期満了・衆議院解散等に依り両議院可決に至らず廃案となった。                                                        その後も民族派及び有志が活動を継続する等で、平成十六年の第159回国会に於いて、度目となる改正法案提出(議員立法形式・衆議院先議)がなされ、継続審議を経て平成十七年の第162回国会で成立した。                               同改正法は国民間の混乱(暦関連)を避け、祝日法改正と施行を円滑に行なうを目的として、平成十九年から正式に施行され、結果、同年以降の月29日は「昭和の日」、従来の「みどりの日」は5月4日に移動した。      我々国民は、この「昭和の日」を機に、激動・国難の昭和時代を今一度思い起こし、今日の平和を築く為、御苦労を成された昭和天皇陛下並び、尊い国の礎と成られた先人、英霊に対しても感謝の誠を表す事は当然乍、更なる恒久平和と安泰を願う為には、我が国「日本」の御親で在らされる平成御代「今上陛下」を敬い、心の寄り処で在る「御皇室」と国民が一体融和しなければ実現が不可能で有る。
 然るに我が国の現況は、先の大戦終結から63年の歳月経過で平和ボケし、加えて国賊「日教組・全教組」の自虐教育に毒された戦後生まれの国民が大半を占める等、今や母国「日本」に対しても愛国心や日本人としての自覚と誇りは希薄と成り、更に民族精神に於いては、その大半が意味さえ理解をしようとはしない。
 国家とは国民の生きる目標と証で有り、「昭和」とは過去の歴史では無く、平成の礎で有り、激動と国難の昭和と言う時代が有ったからこそ、の平和国家「日本」が有るのだと言う事を今一度思い起こすべきで有る。
 依って激動と国難の時代を乗り越え、平成に生きる我々国民には「昭和」の生き証人と同時に、昭和天皇陛下御遺徳を顕彰しつつ、「昭和の日」設定意義も次世代を担う国民に対し、確りと認識継承させ無ければ、現況のまま時代を推移させれば、我が国は衰退滅亡への一途を辿る事に成ると言っても過言では無い。
                             
〓活動報告〓
平成二十年四月二十九日、午前十時、北九州市門司区和布刈(メカリ)へ、殉国青年塾総本部並び北九州市内に本拠を置く民族派団体と、治安確立同志会総本部・日本玄洋社(福岡県)等の友好団体が集結し、国民儀礼・街宣コース注意事項等の終了後、午前十時四十分より梯団を組み市内街宣へ出発。
 門司区小倉北区戸畑区若松区内等に於いて各車輌の弁士が交代で「昭和の日」の意義を情宣し、午後一時過ぎ、八幡東区内に於いて流れ解散をした。
                          

 
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